おばけうさぎの断片的なこと、あれこれ

思いつきで書いたり書かなかったり

Dくんのこと

高校生のとき、私は典型的なぼっちだった。お昼はひとりで食べ、クラスメートとは交流がなく、半分は保健室で過ごしていた。私に話しかけることは「罰ゲーム」とされたし、ゴミを投げられることもあった。

また、私のいた学科は特殊で、3年間ほとんどクラス替えがなかったため、3年間その立場を離れることはなかった。

そんな生活を送っていた頃、綿矢りささんがデビューして、芥川賞を取った。クラス内文庫にもその作品が置かれていた。

放課後、それを読んでいたらDくんという男の子が声をかけてきた。

Dくんは非常に心優しい人で、こんなカースト最下層の私にも変わらぬ態度で接してくれた唯一の人だったと思う。そのため私の中では恋愛というより尊敬の念を抱いていた。私の学科は男性が非常に少なく、その環境にいると男子もより一層辛辣に言葉や態度でカーストを分ける、というのもこの生活で知った。

そんなDくんは、私が読んでいる『蹴りたい背中』に目を留めて、話しかけてきた。

「○○さん(本名)、それ面白い?」
「うん、面白いよ。前の作品より好きかも。主人公に感情移入しやすい」
「俺も読みたいなー……でも、ちょっと恥ずかしいけど、自分とあまり変わらない年代の人が活躍しているのを見ると素直に読めないんだよね」

この時、自分は
「全然違う世界の人に、あまりそういう風に思わないなー」とぼーっと思いながら適当に
「あーわかるわかるー」と答えた気がする。多分適当に答えた。

彼は自分のその適当さ、話のつたわってなさを感じてたんじゃないか、と最近思い出すことが増えてきた。

何故かと言うと、自分も今同世代で活躍している人の文章を、素直に読めなくなっているからだ。
勝手に嫉妬したり、もやっとしたりしている。認めたくないけれど、嫉妬している。
頭のなかでは「記号的なところで、人が幸せかどうかなんてわからないんだよ?」ともちろん理解できているけれど、その心を分解していくと、幼い心がある。同時に「私、この人になりたいとか思ってる?」とも思う。こういう世界に入りたい、こういう人になりたい。そういう思いが無いと、嫉妬しない。本当に別世界だと認識していたらそう思わない。

Dくんはここまでレベル低くひがんだり嫉妬したりしていないと思うのだけれど、
「同世代の人の文章を素直に読めない」という事実を、私はこうやって仮名でブログに書くのでさえ恥ずかしいと思い、ためらっているのに、どうしてあの時彼はするりと他人に話せたのだろう。
あの時も、今も、自分はひたすら「私、ここがこんなにつらいんです!」というところに執着していて、そんなに素直にさらけ出せない。

人間の器の大きさの違い、とかなんとなく、といった気もするけれど、その時彼は何を考えていたのか、今とても聴きたくてしょうがない。

私は積極的に高校時代の記憶を消そうと努力して、見事自分が所属していたクラス名や人の名前、3年間のことを空白にすることに成功したので(人の顔がまだらになっていたり、消えていたりする)、彼の名前ももちろん忘れていたのだけれど、今日ようやく苗字だけ思い出した。Dくん。Dくんだった。

当然のごとく同窓会にも呼ばれていないし、facebookを10年近く続けているにも関わらず高校時代の人とは一切コンタクトを取っていないため、全然関わりがない。そのため、彼が高校を卒業してから何をやっているのか、何も知らない。

戯れにGoogleに高校名と苗字を入れてみたけれど、そんな情報では何も出てこなかった。

Free! -Eternal Summer-が好きすぎてつらい

Free! 第1期放映時

 ◆Free! 2期発表時

 ◆Free! 1期 ニコニコ一挙放送時(2期直前)

 ◆Free! Eternal Summer(2期)開始時

 ◆Free! ES途中

 ◆Free! ES終盤(今)

 

最近本当にFree!が好きすぎてつらい。

自分のつぶやきを振り返ってみても、1期の時は全然ノれていない。

それがどうだ。今はテレビ→ニコニコ動画→時にはポイント(無料で貯める)で購入してまで過去のを見る、と最低2回は同じ回を見るし、pixivを見ては「おお……本当に……ここがエデンっ……」とニヤニヤし、挙句の果てにはアニメショップ、マルイの期間限定ショップをめぐり、キャストのサインがあるお店に足を運ぶという熱の入れよう。職も見つかってないのに。もうどうかしてる。どうかしてるよ。

 

しあわせがたりない

盲目の女の子に怪我をさせたとか、盲導犬にタバコを押し付けたとか、

杖を付いている人にわざわざ喧嘩を売りに行くとか、そういうニュースやツイートを見て、本当に今ってギスギスしていて余裕がないんだなぁと思う。

なんかもう「しあわせ」っていうのが壊れているんだとはっきり分かる。

「しあわせになりたいねぇ」と思っても、その理想型がぐちゃぐちゃに崩れている。

 

 

人生はつらいことの積み重ねで、「しあわせ」というのはもう自分をごまかすためのフィクションなんじゃないかって思いながら、それでもの「しあわせ」を手放しちゃいけないんじゃないか

 

 

散文的になってしまった

 

『呪詛抜きダイエット』イベント、そして「みじめさ」④

 

運命の女の子 (アフタヌーンKC)

運命の女の子 (アフタヌーンKC)

 

トークショーの翌日、ヤマシタトモコさんの新作『運命の女の子』が発売された。

瞳の箔押しが美しい。

すぐ購入した。

 

サスペンス、ラブストーリー(?)、ファンタジー(?)の3つの話が入っている。

 

勝手な意見だけど、ヤマシタトモコさんの一般誌でのテーマは「みじめさ」な気がする。

 

ヤマシタトモコの作品では、「自分がいる社会での『みじめさ』」を感じている人が、丹念に、丁寧に描かれる。「劣っている」のではなく、「いたたまれない」という気持ち。自分はここにいてはいけない、というようなみじめな気持ち。

美しくても、醜くても、どこかで「あ、自分はこの社会では『評価されない』存在なんだ」と思う瞬間、地に叩きつけられるようなみじめさを感じる。

 

女の子よ銃を取れ

女の子よ銃を取れ

 

 『女の子よ銃をとれ』でもこの「みじめさ」が描かれていたような気がしたんだけど、この「みじめさ」というのが昨今の社会における「呪詛」なんじゃないかな?と『運命の女の子』を読んだ時にぱっと思いついた。

 

あくまで思いつきなんだけれど、『呪詛抜きダイエット』はもちろん田房さんの個人的なテーマ・ストーリーが絡んでいるし、『女の子よ銃をとれ』も雨宮まみさんの個人のストーリー、全く別の話である。

 

だけど、世間にかけられている、または自分でかけている「みじめさ」という「呪詛」は、あるんじゃないかな?

 

トークショーの翌日というタイミングだったからかもしれないけれど、強く感じた。

 

「みじめさ」についてはまた今度。

とりとめのない記事はここまでです。

『呪詛抜きダイエット』イベント、そして「みじめさ」③

 

とか書いているけれど、実際感想を書こうとすると、どこから手を付けていいかわからない……。

 

【前半】

・パンディット、長蛇の列→整理券のお陰でスムーズに入れた

・お客さんは女性が圧倒的に多い。なんとなく自分に似たようなメガネの女性が多い印象だった

・田房永子さん、普通にかわいいんですけど……?

・スピリチュアルの本や人では必ずといっていいくらい「『今』という瞬間を大切に」っていうけど、その理由が分かった、というかそれを筋道立てて話せる田房さんんすごいよ!!

・丸山桜奈さんは見た目「出来るOLです」みたいな感じだけど、口から出てくる単語はガチスピだー!

 

前半の印象としては、すごいスピリチュアルな話をしているのだけど、お二人ともちゃんと地に足がついた、現実的だな、と思った。スピリチュアルなことを言っている人のトークショーだと、もう言っている本人が半分教祖になったかのような、ハイテンション気味な感じの人なときもあって、ちょっと「あーこれは……」という気分になることがあるけれど、このトークでは全然そんな感じにならなかった。

 

ふたりとも「自分の中で基準を設けた上でいろんなものを試し、そしてたまたま自分に合ったものを見つけた。それはたまたま自分に合ったけれど、全員に必ず効果がある!と薦められるものではない。『こういうものもありましたよ』という話はするけれど、『こうでなければいけない』というものではない」という点から外れずに話をしていたからだと思う。そして二人とも、「自分」に対しては「恥ずかしい~!」と感情的になることはあっても、「こういうセラピーもやってみた」という点では非常に冷静だった。その空気がすごく良かった。

 

前半が終わって休憩。

そのとき、私が勝手に『におもきまずー!(意味:荷が重い、気まずい)』(by.宝石の国)と思っていた相手とやっぱり遭遇したけれど、普通に話できた。

 

後半は「お互いがお互いにセラピーをする」というものだった。

全然予想がつかなかった。セラピーというのは、普通公開しないし、こういうセラピーでは自分が全く認識していない感情や事象が出たりする。そういう予想外のことが起きたらどうするんだろう?と勝手にハラハラしていた。

 

しかし、それは杞憂だった。

 

実際、お二人それぞれのセラピーでは、本当に想像できないできごとが起こったけれど、それを冷やかす雰囲気も、やばくない?という雰囲気にもならなかったし、なにかハプニングがあって空気が壊されることもなかった。

 

あくまでセラピーを受けているのは田房さんであり丸山さんであるのだけれど、自分も一緒に受けているような感じだった。おそらく、他の方もそうだったのだと思う。集中/弛緩のタイミングが一緒だった。

 

そしてさらにここでもやっぱり「あくまで受けているのは田房さん/丸山さん」というところは冷静・徹底していたので、妙に「今話している◎◎さんの悲しみを私も感じましたーーーー!」というような、熱狂的な空気にならなかった。

 

(いや、なっていたかもしれないけれど、私は冷房直撃するところにいて、体が冷えて冷えてそれどころじゃなかったから、気づいてなかっただけな気もする)

 

質疑応答のあと、田房さんにサインを書いてもらった。

何も話していないけれど、書いてもらったメッセージは、自分にぴったりな気がした。(サインの人、それぞれに違う内容を書かれていたと思います……)

 

余韻に浸りたかったけれど、とにかく体が痛くなるレベルで寒かったので、早々に帰宅した。

『呪詛抜きダイエット』イベント、そして「みじめさ」②

 

呪詛抜きダイエット

呪詛抜きダイエット

 

そんな思いの中で読んだ『呪詛抜きダイエット』のイベント。行くしか無い。

告知を見たとき、すぐメールして予約した。

 

しかし、何故か前日になって、行くことに躊躇した。

知人が、その場所に来るらしいということを知った。たかがそれだけのことだが、私は今の自分をその人に見せたくないな~、話したくないな~、という強い思いでいっぱいになってしまったのだ。多分、場所的にも後から「あー来てたんですね~」みたいにごまかせない。別に行かなくてもいいし、うん、話したくない。見せたくない。会いたくない。

 

「うーん、でも、それってめっちゃ自分に呪詛かけてない?」

 

と、当日の午後に気づいた。

 

確かに今の自分ってめっちゃ恥ずかしいけれど、それで自分が行きたいところに行かないなんて、バカだ。その人もそんな気にしないかもしれないじゃん。いや、気にするかもしれないけれど、どうってことないじゃん。

 

自分にかける呪詛は、本当にこうやって書くとバカバカしいのだけど、でも強い。

頭が痛くなるまで悩んだけれど、「やっぱり行きたい」と思って、高円寺へ向かった。

 

高円寺に行くのは久しぶりだ。でも、2年前まで近所に住んでいたし、土地勘もある。Google Mapsだってあるし。

 

そう思って高円寺についたら、携帯の電池がもう10%になっていた。Google Mapsを開いたらすぐ電池が切れそう。とりあえずこっちだろう、と思って進んだら、隣の路地に入っていた。

 

あ、開場時間過ぎた。

 

でも、ふっと周りをみたら、自分がいた頃と違うお店ができていた。

知らないパン屋があって、ちょっと心がウキウキした。

違う路地にいるけれど、そんなに離れているわけでもない。

 

美味しそうなパンをふたつ購入し、パンディットに急いだ。

 

 

『呪詛抜きダイエット』イベント、そして「みじめさ」①

私は今、人生最大に太っている。

体型としては、アメリカ留学していた10年前の方がすごいのだけれど(未だにその時の写真をまともに見られない)、体重はその時より更に増えている。

4月に退社した会社に、入った時から数えて10キロ増えた。

今、少しだけ痩せたが、それでもまだ3キロしか減らせていない。

標準体重に戻すにはあと5キロくらい痩せねばいけないし、美容体重を目指していたら15キロほど落とさなければいけない。

BMIも軽度肥満~標準すれすれ。

 

「あんた、やばいよ」と親に言われたけれど、「そう?」と言って、流していた。

しかし、ある時ふっと鏡を見た。私、こんなに前に体が出ていたっけ?

服にみちっとくっついていたっけ?

 

元々自分の写真を見るのが好きではないが、嫌々ながら最近の写真を見ると、そこにはコロコロとした顔が映っていた。

 

彼氏はいない、仕事はない、それに太っているなんて、いいとこなんてなんにも無いじゃないか……

 

と絶望しきっているころに、大和書房で「呪詛抜きダイエット」が連載されていた。

既にその頃は単行本化に入っていて、途中で読めなくなっていたが、その冒頭部分だけでもなにかピンとくるものがあった。

 

私はダイエットし始めのとき、「女性アイドル、またはモデルさんを見習おう。そうやって意識を高くしておけばきっとモチベーションにつながる」と思っていた。健康的に美しく、可愛いモデル。

 

ただ、ちっとも続かなかった。そもそも、今自分が着たい服というのも見失いつつあるのだ。ファッションが変われば、「こうありたい」というモデルも違う、という根本的なことを忘れていたし、雑誌を見ても「……なんか皆同じ顔に見えるんだけど……年か?あと、雑誌ごとのカラーもよくわからんな」という状態になっていた。モデル探し以前の問題だ。

 

アイドルでは、℃-ute矢島舞美さんが美しいなぁ、と思った。しかし、「気を抜くと腹筋がついてしまう」という彼女を、私が目指すのは遠すぎる。

 

体にも心にも「モテない贅肉」がつきまくって、すねていた。

 

そんなときに出会ったのが『呪詛抜きダイエット』だった。

 

『呪詛抜きダイエット』は「生大根ダイエット」とか「カーヴィーダンスでダイエット」とか、そういう「方法」の本ではない。

 

なぜ自分はこの体型になったのか。

本当に嫌なのに、なぜその習慣を止められないのか。

 

私はその本に出会った時、「あ、食べなければ痩せるじゃん!ちょうど胃腸悪くて吐いてるし、これからも吐けばいいんだ!ピコーン」となって、炭水化物まみれの食物を、口に指を突っ込んで吐き出していた。そして、それで痩せるどころか増える一方の体重と自分にどんどん絶望していた。私は痩せたいだけなのに。体に入れなければ痩せるはずなのに。それなのにどうしてこんなにたくさんのスパゲッティを茹でて、食べて、吐いているんだろう。そしてちっとも体重が減らないんだろう。どうして。どうして。

 

「たくさん食べて、吐く」という思考はもうどこか常軌を逸している。

過食嘔吐」というレベルでは食べていないが(数千円分の食物を一気に食べるくらいのことをしないと過食とは言わない気がする)、常に「大盛り」で人より多めに食べていることは間違いない。

 

ただ、どうしてもいきつけの心療内科でそれを話すのは嫌だった。薬を増やされるだけな気がする、と思った。多分薬では解決しない。ある意味、本気で病院にかかりたかったら、もっと食べて吐かなければいけない、私の食べっぷりでは過食というのはおこがましい、みたいなずれた思考にいっていた。

 

そうしたら、似たような流れが書籍の『呪詛抜きダイエット』に出てきてびっくりした。

 

そうそう、私が欲しいのは薬じゃないんだよ。

 

(続く)