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おばけうさぎの断片的なこと、あれこれ

思いつきで書いたり書かなかったり

怒りの感情を抑えるために

今、非常に混乱している。

後から振り返れば笑い話になるかもしれないが、今は怒りと混乱と気持ちのもっていけなさに戸惑っている。

私に今すぐできることは何もないが、気がつくとこめかみが痛くなるまで歯を食いしばっていた。

怒りというのはぶつけにくい。
しかも私の場合ははじめ気がつかなくて、後からやってくるから非常に厄介である。

そんな帰り道、この間見た文言を思い出した。

「 コリントの信徒への手紙 一 13章

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」


園子温監督「愛のむきだし」という映画で、満島ひかりが一気に言ってのけたセリフはこの聖書からの一節だった。

"預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。"

キリスト教の本(というか一神教の本)なので、完全なものは所謂「神の国」で、「信仰は」と聞かれたら即座に「神道です」と返す私はきっとその中には入れないのだけど、私たちの知識も預言も一部分、と言い切っているところが気に入っている。

人間の考えるものは部分でしかない。

見ているものも部分でしかない。

完全というのは神しか知らない。

すっぱりしている。


この台詞を見て、Twitterとブログにコピペして、ようやく気持ちが落ち着いてきた。


自分でもいいのかなーと思う。

キリスト教は信じてないけど言葉だけ気に入っちゃってる。

神道って祝詞は毎回作るものだし、呪文的なものはないし、もう禊に行くしかないしね…参拝して穢れを祓うとか…個人的な怒りを鎮めるものではない。

そう考えるとやっぱり聖書とかは個人を律するために優れたテクストなのかしら。

全然宗教きちんと勉強したことないけど、たまにちゃんとやりたくなるわ。