おばけうさぎの断片的なこと、あれこれ

思いつきで書いたり書かなかったり

「すべての仕事は売春である」

というのは岡崎京子『pink』のあとがきにあるが、イマイチ自分の中に落ち切らなかった言葉だった。

派遣社員として働いていて、ふと「私の仕事は売春である」と思った。

正しくない解釈だと思うけれども、

私は今この場にいるけどこの会社の社員じゃない、というちょっとした浮遊感や、 馴染みきってはいけないような気持ち、「私のお客様は――もちろん『顧客』もお客様なんだけど――第一義的な意味でのお客様は今、ここにいて一緒に働いている同僚や上司である」という状況は、言うなればまさに「売春」と思うのである。

ある意味バーチャルな人間関係で、契約が切れたらもう会うこともない、そんな感じ。

「事実として、派遣社員を雇うというのは家具を買うのと同じ目線で見るということだからね」
「人じゃない、という意味ではなく単純に『スペックでしか判断されない』という意味で。この人はこれができる、なにが出来る、それもできる。じゃあ雇う。買う。」

人からその言葉を聞いたときはどう返事をすればいいか分からなくて曖昧に笑っていたけれど、同時に頭がスッキリしたことも事実だ。

私の体を買うお客様なのだから、親しいお友達は、いないか数少ない方が望ましい。べたついてはいけない。

お客様の前では、できるだけ良いパフォーマンスをしたいと思っている。

「わたしの仕事は、売春である」

そう思うと、不思議と明日も会社行くか、と思えてくる。少しだけ。


ひさしぶりに

再就職したら祖母が亡くなり、年末、正月と過ぎいつの間にかもう1年の6分の1が終わろうとしている。早い。 

職場には少しずつ慣れてきている。
基本的に3か月くらいは私の人見知り期間であるが、今は派遣社員ということもありまだあまり気を抜けない。正社員や直接契約との違いはここも大きいと思う。どこまで行ってもここはホームでなく、あくまで他人の場所なのだ。失敗や気の緩みが契約打ち切りになるかも、と思うと必然的に力が入る。 

しかし、ある意味自分にとっては開放感のある職場かもしれない。 

「才能」という言葉に振り回されないことがとても幸せだ。

人の才能を上から目線で判別するのにも、自分自身に対して才能の有無をいちいち確認して、確認しなければいけないということはすなわち無いという事実に打ちひしがれるのにも、もう振り回されなくていい。

私は、私の仕事をしていればいい。

それはとてもしあわせなことだ、と噛みしめる。

飛行機と肉体

告別式を終えたばかりで、なんでも死について結びつけたがる感傷的な気持ちのたわごとだと思って書いている。


私が実家に帰るときに乗った飛行機は、雨の中を飛んだ。そのため、雲の中を通るとき、激しく揺れた。飛行機には大学入学以来、毎年乗っているが、その中でもトップクラスに入る。

横揺れ、縦揺れ、ジェットコースターに乗ってたっけ?と思うくらい、重力を感じる揺れ。ジェットコースターにはレーンがあるが、離陸した飛行機は当然助からないレベルの高さにいる。

「葬式で帰るのに大丈夫かこれ」

と思った。

緊迫した空気のなか、ようやく雲の上に出た。

眩しかった。
通り抜けた雲はとても綺麗だった。

その雲を見ていたら

「あ、人の一生ってこんななのかも」と思った。

気流にもまれ、激しい揺れの中で産まれるけれど、生きてる間はこんな光みたいなところにいて、また揺れながら戻っていく。

再び飛び立つ、と思う人も、
いや、1回だけ、と思う人もいるだろうけれど。

着いて早々向かった部屋には、祖母がいた。

ぎょっとした。
ぎょっとしてしまった自分を恥ずかしく思ったけど、やっぱりぎょっとした。

肉体だったはずなのに、もうものになっている。
顔を見たら、本当に寝てるだけのような気がするけど、動かない。

どきどきしながら少しだけおでこに触ってみた。頬を触ってみたかったけど、その弾力のなさを知ることが怖くて、おでこにした。

なんともいえないひやりとしたものだった。

結局その後は棺の中に入れられて、もう触ることはできなかったから、この時触れておいてよかったと思う。

今日、棺に花を入れながら、とても不思議な気持ちになった。

「あんたの指はわたしとそっくり。顔の形もよく似てる。」

と言っていて、実際瓜二つだった様々なパーツ。

もうなくなってしまうものが、私の中にはあると思うと、とても不思議な気がした。

これからはこういうことも増えるんだ、と思うと、複雑な気分だ。

働きはじめました&再就職活動ふりかえり①

新しい職場で働きはじめて1週間経ちました。

朝9時前に出勤とか何年ぶりよ……。

勤務形態は今話題の「派遣」なのですが、今のところ職場は自分には合っているようです。

失職してから、「もう派遣でもいい…」とヤケになって登録した点もあるのですが、派遣でもなかなか決まらない。

社内選考には通っても、「会社見学」という名前の面接で落ちたり、「他社との競合で負けました」という理由で落ちたりして、「私は要らない人間なんだ……」と落ち込むこともしばしば。

(ちなみに、私はこの半年間正社員・契約社員でも一応内定もらってますが、「社会保険関連がおかしい」という理由でお断りさせていただいたり、あと「書類頂けませんか?」と聞いたら「じゃあ内定取り消し!」みたいならことを言われたりしています)

派遣は本当正直最後の手段みたいな気持ちだったのですが、今やってみて思った良い点・悪い点書いてみようと思います。

(つづく)

寝るのが怖い?

今年失職したときから、激しい頭痛やら嘔吐やらに苦しんできたのだけど、その中で抗鬱剤の断薬に成功したのは嬉しい。

気がつくと数ヶ月飲んでない(手元には残ってる)。

ただ、睡眠導入剤だけはまだ断てていない。

単に眠るだけなのに4種類も薬を飲んでいたのが、最近は2種類になってきたとはいえ、眠る前に何かしら飲んでいるのは変わらない。

そこで、電車の中で熟睡したのをきっかけに、「本当に私は眠れないのか?寝付けないのか?」を昨日考えてみた。


すると
「眠るのが怖い」
「熟睡するのが怖い」
という思いが湧いてきた。少し混乱した。怖い?

眠くて眠くて仕方ないはずなのに、布団に入るとなんだか落ち着かない。布団が悪いというのもあると思う(せんべいぶとんを床に直敷き)けれど、「意識を失うのが怖い」という思いが1番強いようだった。

最近はマッサージ中も眠れない(よっぽど傷めつけない限りは寝てる)なー、おかしいなー、と思っていたけど。

新しい職場でも異様に失敗するのを怖がってしまって、パニックになってしまうことがある。

だが、「いや、あなたには今即戦力としてやってもらう役割ではなく、基本をしっかり身につけてほしい、最初はできなくて当たり前だから」と言われたらとても落ち着いた。

前は「不安で不安で仕方ないの!」っていう気持ちだったが、今は一歩引いて、自分の不安感を、子供に聞くように「何が怖いのかな?」と聞くことができるようになった。

ホ・オポノポノの「クリーニング」という概念が昔はよくわからなかったけど、多分、こんな感じで常にリリースしていくことなんだろうな、不安とか恐れとか。喜びも。

眠りへの不安、あと「お金」への不安(すごいお金については恐怖心が強い、貯められない自分への罪悪感とか、「自分に支払われるお金は親や社会の損だ」みたいな、ことを真剣に思っている)が今は1番強いから、そこにフォーカスあてて向き合ってみよう。

今はそんなところだ。

ようやくAndroidから

はてなブログのAndroidアプリが出たッ!」 

というのを見かけて、私も入れました。

これは使いやすそう。

早速アプリを使って投稿テスト。


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スマホで撮った画像も楽に入れられる。

これからはこちらで投稿するのが増えそうだなぁ。

Dくんのこと

高校生のとき、私は典型的なぼっちだった。お昼はひとりで食べ、クラスメートとは交流がなく、半分は保健室で過ごしていた。私に話しかけることは「罰ゲーム」とされたし、ゴミを投げられることもあった。

また、私のいた学科は特殊で、3年間ほとんどクラス替えがなかったため、3年間その立場を離れることはなかった。

そんな生活を送っていた頃、綿矢りささんがデビューして、芥川賞を取った。クラス内文庫にもその作品が置かれていた。

放課後、それを読んでいたらDくんという男の子が声をかけてきた。

Dくんは非常に心優しい人で、こんなカースト最下層の私にも変わらぬ態度で接してくれた唯一の人だったと思う。そのため私の中では恋愛というより尊敬の念を抱いていた。私の学科は男性が非常に少なく、その環境にいると男子もより一層辛辣に言葉や態度でカーストを分ける、というのもこの生活で知った。

そんなDくんは、私が読んでいる『蹴りたい背中』に目を留めて、話しかけてきた。

「○○さん(本名)、それ面白い?」
「うん、面白いよ。前の作品より好きかも。主人公に感情移入しやすい」
「俺も読みたいなー……でも、ちょっと恥ずかしいけど、自分とあまり変わらない年代の人が活躍しているのを見ると素直に読めないんだよね」

この時、自分は
「全然違う世界の人に、あまりそういう風に思わないなー」とぼーっと思いながら適当に
「あーわかるわかるー」と答えた気がする。多分適当に答えた。

彼は自分のその適当さ、話のつたわってなさを感じてたんじゃないか、と最近思い出すことが増えてきた。

何故かと言うと、自分も今同世代で活躍している人の文章を、素直に読めなくなっているからだ。
勝手に嫉妬したり、もやっとしたりしている。認めたくないけれど、嫉妬している。
頭のなかでは「記号的なところで、人が幸せかどうかなんてわからないんだよ?」ともちろん理解できているけれど、その心を分解していくと、幼い心がある。同時に「私、この人になりたいとか思ってる?」とも思う。こういう世界に入りたい、こういう人になりたい。そういう思いが無いと、嫉妬しない。本当に別世界だと認識していたらそう思わない。

Dくんはここまでレベル低くひがんだり嫉妬したりしていないと思うのだけれど、
「同世代の人の文章を素直に読めない」という事実を、私はこうやって仮名でブログに書くのでさえ恥ずかしいと思い、ためらっているのに、どうしてあの時彼はするりと他人に話せたのだろう。
あの時も、今も、自分はひたすら「私、ここがこんなにつらいんです!」というところに執着していて、そんなに素直にさらけ出せない。

人間の器の大きさの違い、とかなんとなく、といった気もするけれど、その時彼は何を考えていたのか、今とても聴きたくてしょうがない。

私は積極的に高校時代の記憶を消そうと努力して、見事自分が所属していたクラス名や人の名前、3年間のことを空白にすることに成功したので(人の顔がまだらになっていたり、消えていたりする)、彼の名前ももちろん忘れていたのだけれど、今日ようやく苗字だけ思い出した。Dくん。Dくんだった。

当然のごとく同窓会にも呼ばれていないし、facebookを10年近く続けているにも関わらず高校時代の人とは一切コンタクトを取っていないため、全然関わりがない。そのため、彼が高校を卒業してから何をやっているのか、何も知らない。

戯れにGoogleに高校名と苗字を入れてみたけれど、そんな情報では何も出てこなかった。